<鍋田開智(本名・鍋田嘉一)師範 略歴>
昭和三年八月七日、鍋田家の長男(六人兄弟妹)として清水市(現静岡市清水区)に生まれる。「任侠の心(武士の心)」で知られる次郎長の墓標がある梅蔭禅寺の門前にて、幼〜少年期を過ごす。
少〜青年期、パイロットを志して千葉県の飛行学校に入る。ここで、後に陸軍特別攻撃隊「鉄心隊」としてレイテ戦へ征くことになる長浜清氏と出会い、その生き様(武士道精神の真髄)に触れる。昭和二十年八月十五日、飛行学校の生徒として終戦を迎え、故郷の清水に帰る。
GHQにより終戦直後から禁止されていた武道が、徐々に再開される中、自身で手作り(古着を脱色、仕立て直し)した道着を持参して、当時近隣で唯一稽古が行われていた柔道を学ぶべく、警察の道場へ通う。また、清水市(現静岡市清水区)の職員となり生計を立てる。
昭和二十六年十月に結婚。間もなく、平井稔範士が指導する光輪洞静岡道場(昭和二十年設立)に入門、合気道の稽古に打ち込む。結婚後は一時期、空手道も学ぶ。
昭和二十八年二月に長女が誕生。家族、職場の同僚や部下を大切にしながら合気道の修行、研鑽を続ける。
昭和四十三年五月、静岡大学合気道同好会発足に伴い同会の指導者に任命される。同会は翌年に静岡大学合気道部となったため、以後、合気道部の指導者として尽力する。
{ その他、静岡女子短期大学(後の静岡県立大学短期大学部)、静岡銀行(銀行側の都合で創部後間も無く廃部)に新設された合気道部の指導者にも任命されている。 }
合気道部を指導するにあたり、光輪洞の指導者としての自身の教室、清水支部鉄心会を開設。十七夜山保育園の広間を借りて道場とし、研究、錬磨を重ねつつ、一般の入門者にも合気道を指導する。また、この時期より併せて居合道を学ぶ。
昭和五十三年一月、合気道八段となり「師範」の允可を受ける。以後、自身の名に「開智」の文字を好んで用いる。
昭和五十六年十月、合気道部の学生の要望に応え、不充分を承知で合気道の指針「守破離」を発行する。昭和五十九年には、再度望まれて「再び守破離」を発行。学生のために奔走する。
公務では就職以来いくつかの課の仕事を担当している。清掃事務所では生じた乱闘を合気道で抑えに入った。また、後に師範助手となる井田清氏との出会いがあった。労政課では日本各地や東南アジアを回り見識を深めた。消防本部には請われて二度派遣され要職に就いた。公私にわたり、部下の相談によく応じた。
昭和六十二年初夏、合気道部の創立二十周年に際し記念誌へ寄稿。四戒の多い稽古に流されたり、背伸びした頭だけの演出演武をしたりすること(馴れ合いや妄想、生兵法)に警鐘を鳴らす。
平成元年、多忙の中、病に倒れる。家族や師範助手のサポート、範士の助言もあって、倒れた後も、学生の熱意に応え合気道の研究、指導を続ける。
平成八年十一月、学生の一言から深く考えるところがあり、明治神宮合気道演武会の懇親会において意見書を提出。これを機に、平成九年一月、学生の賛同を得て、範士が隠居した光輪洞を離れる決意を固める。そして長年の研究、厳しい錬磨の成果である鉄心会の合気道(武道)を「鉄心合気道」としてまとめる。
平成十年十二月、合気道部指導に必要な技法群を学生に全て伝えた後、長年続けた十七夜山保育園の道場を閉める。翌年四月、鉄心合気道教範「三たび守破離」を発行。その後も学生の熱意に応え、自宅を拠点に指導、支援を続け、鉄心合気道の心と技を伝える。作成した指導用の資料からは要点を抜粋し、三たび守破離の追録一、追録二を発行。
さらに、晩年は合気道部の将来を案じ、学生および卒業生を激励しつつ、部の存続に対し新指導体制の様々な案を提起。部の卒業生が指導する案では、後に指導員となる3名(内1名は平成29年度より相談役)に1名ずつ順番に声をかけ、その意思を確認。判断を委ね、後事を託した。
平成十六年、体調を崩し、六月二十日に入院。七月二十八日、多くの関係者に惜しまれつつ逝去。享年七十六歳、世のため人のため、合気道部のために尽くした生涯であった。
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