(鉄心合気道が旧大日本武徳会系を名乗る所以)
昭和16年、東軍流を始めとする数派の武術に熟達していた平井稔(当時植芝盛平の皇武館に止宿)が皇武館直門の門弟達とともに大日本武徳会へ行き、総合武術部門を創設。この総合武術に名付けられたのが、柔道、剣道の如く道のついた「合気道」である。
当時皇武館で稽古され大日本武徳会に持ち込まれた武術の主体は、大東流合気柔術中興の祖武田惣角より植芝に伝えられた合気武術である。戦後になって皇武館が合気会へ改組される際に、大日本武徳会での武術の名称が採用され、組織の拡大とともにその名称も普及した。
昭和20年8月の終戦によって大日本武徳会は解散させられたので、平井は何人かの門弟とともに静岡(安倍川奥)に光輪洞道場を創り、この武術(合気道)を伝えていくことになる。鉄心合気道の創始者である鍋田開智は、旧大日本武徳会からの古参の門人が残る時期に光輪洞へ入門。戦前からのやり方が色濃く残る道場で合気道の修業を始める。
昭和28年に東京に移った平井は戦後の大都会の世相に合わせ、型稽古や他流派からの脱却を図った独自の合気道(円転の体捌きと円乱取りから成る新興武道)の模索を始める。昭和29年には東京道場を中心とした大日本光輪会を設立。
平井が東京に移った後、静岡道場では会の方針転換を知らされるも、旧大日本武徳会からの門人達が残る昭和30年頃まで、戦前からのやり方(厳しい稽古による伝授法)で型稽古を継続。当時、静岡では平井が東京から指導に来る日に、鍋田のみ独自の円乱取り形式の教習を平井から直接受けていたそうである。
古参の門人がいなくなって以降は、稽古のやり方(型の種類や比重など)も必然的に変化したが、鍋田は旧来の型を捨てずに体捌きや乱取りとともに修業を続け、昭和43年に静岡大学合気道部の指導者となって、間もなく清水に道場を構えることになる。
自らの道場で指導を始めた鍋田は、立合いや実戦(職場での乱闘騒ぎ)なども経験し、また他流派(長谷川英信流や大東流)のやり方も学びつつ研鑽を重ね、以って50年の修業の蓄積で「型稽古」と「乱取り稽古」の組み合わせで修練する「鉄心合気道」を創始するに至った。
即ち「鉄心合気道」の稽古は、「基本動作(体捌型)」、「初伝前四ヶ条(型)」、「初伝十ヶ条(型)」、「中伝五ヶ条(型+乱取り)」および「上伝五ヶ条(未開示)」の体系から成る。「後の先(先後の先)の理」、「合気の理(三原則)」および「士魂(武士の精神)」を体得することを主眼とし、社会貢献できる自立した強い人材を育成することを目的としている。
静岡大学合気道部は、この貴重な鉄心合気道を継承研鑽する道を選択し、歩み続けている。
(以上、先師の敬称略)
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